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今月の「まなざし」

宝物と出会うために

黒木郁朝さん(木城えほんの郷 村長・版画家)

写真 宮崎・木城の風景 延岡から木城に移り住んだのは、約20年前。まもなく村興しの波が日本中を駆け巡った。

「下手に起こすと不眠症になるっちゃ」。

当時、黒木郁朝さんはそんなことを言って、時代の風潮から距離をとっていた。

やがてバブルがはじけ、各地の村興し事業が頓挫してゆく。木城にも、芸術伝承の館が建っていた。町民の危機感が高まる中、事業計画の再考が始まり、ついに黒木さんが引っ張り出された。

後に“えほんの郷”になったその場所は、都会の人の感覚から言えば、とても不便なところだ。宮崎の町の中心部から直通の交通機関はない。車で1時間。峠を一つ越えてなお連なる山々を背に、ゆったりと流れる川。その川沿いに広がる山里から少しだけ奥に入った森の中にある。「ここに来よう」という想いがなければ、絶対に来られない場所だ。だが、だからこそ守られている何かがある。

「絵本文化を伝えるにはいい場所やね」。

写真 木城えほんの郷の夕景

ブラティスラバの絵本原画展を実験的にやってみることにした。

ブラティスラバ(スロバキアの都市)の絵本原画展といえば、絵本に携わる人ならば一度は見たいと思う世界的に有名なコレクションである。それを名もない山里でするという。果たして人が集まるのだろうか。

人々の懸念をよそに、黒木さんの打ち出した方針は「マスコミを使うな!」。

口コミだけを頼りにチケットを売った。開催の一週間前にはじめてマスコミ各社に、ごく簡単なファックスを流した。大手新聞社が一社だけ、大きく採りあげて記事にした。町役場に問い合わせが相次いだ。神戸や米子あたりからも団体で来てくれるらしい。すごい人が来そうだ。

「隣町の高鍋駅まで大型バスでピストン輸送してはどうか」という案が出た。

ところが、黒木さんは言った。

「それはやめたほうがいい。なるべく不便で不親切がいい」。

当時、町役場までは乗り継ぎで一時間毎にバスが来ていたが、そこからの足がなかった。でも、そこからひとつ峠を越えなければ、会場には着かない。どうしても足がない人のために、福祉バスを出すことにした。

実は黒木さん、「乗り継ぎに、3時間ぐらい待ってもらったら?」とも言ったのだが、さすがにそれは却下され、待ち時間は30分ぐらいですんだそうである。

今、黒木さんは語る。たっぷりとしたひとかたまりの時間の中でゆったりと過ごすことが、この森の中で宝物と出会うためには一番大切なことなのだ。何もかもが便利な都会では、“あれがすんだらこれ、これがすんだらあれ”と、隙間なく埋められた時間が人を走らせる。でも、ここでは、ぼーっと待っていると、川を泳いでいるカモの群れを見かけたり、足元のすみれの花に気づいたり、ウグイスの声も聞こえてきたりして、何かゆったりとした時間を感じることができる。

そういう自然と調和する流れに身をひたし、予感を高めながら1つのきらきらしたものに出会い、そしてその余韻にひたることによってこそ、一人ひとりの心は真に豊かになる。伝えるべきもの──それを本物のみが放つ美だと言い換えてもよいだろうか──は、しっかり持っておかなければいけない。それを伝えるための場作り、場の空気を作ることが、何より大切なのだ。

1994年4月29日から開催された『ブラティスラバ世界絵本原画展』には、10日間で延べ1万人が訪れた。こうして絵本文化を伝える発信地として、“木城えほんの郷”は産声を上げることになった。黒木さんは、木城えほんの郷の村長になった。

写真 黒木郁朝さん

「あの頃が一番楽しかった」と思い起こす黒木さんは、冒険好きの子どものようだ。寅さん好きで、茶目っ気たっぷり。もともとは版画家である。自宅ではニワトリを飼い、ヤギを飼う生活をしている。作物が育つ畑は、この20年、耕したことがないそうだ。ヤギが雑草を食べ、食べられた草は肥料となる。落ちた種が芽をふき、翌年も実る。

「がんばらんとやれんちう世界は、やめた」。

黒木さんの審美眼と人間的魅力が、木城えほんの郷の核心にある。

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